2019年1月22日火曜日

タマンKLCCにて


暖かい日です。
ウトウトと、眠くなります。

タマン(公園)
KLCC(地名)にて。

私はぼーっとしております。

火曜日のお昼時。
人も少ないです。

ドでかい公園です。

マレー系や中国系の人より、
やはり欧米系の連中が多い気がします。

タンクトップの白人連中が
うろうろしているので、

なんとなく東南アジアにいる
というよりハワイとかにいる
感じのほうが強いです。

やはり欧米人はどこへ行っても
公園大好きっこ。公園にたむろってますね。

日本でも上野公園とか日比谷公園とかに
縄張りを構えているイメージです。

公園は彼らの聖地、
ソウル・プレイスなのでしょう。

タマンKLCCの傍には、
これまたドでかい、
スリアKLCCという巨大な
ショッピングモールがあります。

伊勢丹やユニクロや、
紀伊国屋書店も入っています。

そちらはいつも超混んでます。

日本人と同じく、
クアラルンプール人も
ショッピングが大好きなようです。

現にクアラルンプールには
ドでかいショッピングモールが
たくさんあります。

しかも相当愛されているのか、
それぞれのモールに、「愛称」まで
付けられているのです。

”パビリオン”、”ファーレンハイト”
”プラザ・LowYat”、”SOGO”、”ウェルド”
"Great Easter"、"クイルシティ"、、、

なかなかの溺愛っぷりです。

彼らがかなりショッピングモールを
愛していることが分かります。

KL(クアラルンプール)民の
聖地(ソウル・プレイス)は、
ショッピングモール、、、

多分それで間違いないでしょう。

KL民、というか、アジア人全般が
そうかもしれません。

日本でもビックロとか秋葉原とか
ドでかい商業施設やタウンに
アジア人がガっと押し寄せてる感じです。

......

なんとなくここまで思って、
不安になってきました。

私も無論アジアの民です。

正真正銘、純粋培養の
江戸っ子、純血100%です(多分)

古来から続く和の心、
サムライ魂を受け継ぐ日本人です。

が、ぶっちゃげあまり
ショッピングに興味がないです。

昔から。
なぜでしょう。

公園の方が3千倍すきです。

もしかしたら、、
私は日本生まれではない、、、??

....

んなわけないですね。

さて、家に戻ります。

ちなみに、タマンKLCCの隣に
ショッピングモールがあって、
更にその隣にはKLCC水族館という、
なぞの水族館があります。

妙な形の建物で、なんとなく、
シドニーのオペラハウスっぽいです。

見ると、結構浅黒いひとたちが
周りをうろついています。

おそらくタミル系とか
インド系とかの方々でしょう。

公園には欧米系。
モールにはアジア系。
水族館にはインド系。

..もしや、インド人の
聖地は水族館!?

....

んなわけないですね。

昼下がりで頭がポヤポヤしてきたので、
思考が妙な方に飛び始めました。

帰ってシャワー浴びて、
コーヒー飲んでお昼寝します。

ではまた。

クアラルンプール民やすらぎの場

2019年1月21日月曜日

懐かしいヒト


あなたにとって、一番、
「懐かしい」と感じる人は誰ですか?

幼少期の親友の友達でしょうか?
昔の恋人でしょうか?
学生時代の恩師でしょうか?
小さいころ好きだったおばあちゃんでしょうか?

それとも、、、

過去のあなた自身ですか?

私は過去を思い出すのが得意ではありません。

過去の思い出のアルバムは、
配列がバラバラで、整理されておらず、
支離滅裂で、想起できる情景も
薄ぼんやりしてセピア色。

記憶を想起する私自身、
過去の現象にリアリティを感じることはできず、
臨場感のない思い出で私の記憶フォルダは
埋め尽くされています。

本当に自分が経験したのかさえ、
強く断言できず、誰かが過去の
私との思い出を語るとき、

なんとなく「異質」で、
「不可解」な感情が沸き起こるのです。

懐かしいなぁ。

そんな風な気持ちを私は、
全然抱かない、抱けないのです。

そのことに、最近ようやく、
気が付けました。

あなたは、日々の生活の中で、
「懐かしい」という想いに浸る
瞬間はありますか?また、
それはどんな時ですか?

私の友人のひとりは、
ノスタルジックな気持ちに
なるとき、何とも言えない、
「幸せ」な気持ちになるといいます。

うらやましいです。

特に、

過去好きだった初恋の相手、
お世話になった上司、先輩、
急逝してしまった義理のお兄さん、

そして、昔の彼自身について、
思い出すとき、思いをはせるとき、

何とも言えない多幸感に
包まれるといいます。

懐かしい人のことを想う、

それだけでモチベーションが
マックスになり、やる気が出て、
日々前向きに頑張ろう!と
思えるようになるそうです。

すごい事です。

すごい能力で、
すごい才能だと思います。

あなたはどうですか?

彼のような、そんな力、
ありますでしょうか?

なぜそんなことをお聞きするかといいますと、
私もできることなら、ゲットしたいからです。

そんなスペシャルパワーを。

懐かしいヒトの事を思い出す、

そのトリガーで、グッと力を
チャージでき、ダイナミックに
人生を生きることができる。。

そんなことが私にもできたら、、
と羨望の気持ちがあるのです。

だから、願わくば、ヒントをください。

あなたが「懐かしい誰か」を
想うとき、どういう気持ちになるのか。

それを今回の記事の
コメント欄に書いてほしいのです。

懐かしい人を想うとき、
そこにとてつもないパワーが
生じる、そのメカニズム。

それを私は解明したいと、願っております。

2019年1月20日日曜日

南国ジレンマ

ジレンマを抱えている。

東南アジアのIT先進国、
マレーシアの首都、
クアラルンプールに着いてはや3日。

私はなんとも言いようがない、
フラストレーションを抱えている。

その出所をたどると、私がなぜこの
国にやってきたのかの理由に遡る。

今現在日本は1月で、真冬だ。
だから、私はこの時期にポイントを当てて、
南国のマレーシアにやってきた。

仕事中心人間の私の目的は、
当然仕事をはかどらせるためである。

日本は今寒すぎる。

寒い日本を離れて、暖かい国へ行けば、
仕事もガンガン進むのだろうと考えたのだ。

が、

その考えはあんまり正しくなかったようだ。

マレーシアは確かに暑い。
というかあったかい。
ぽかぽか陽気ですぐ眠くなる。

だから、逆に頭が働かなくなる。

なんとなく、どうでもいいかな、
と感じてしまうのだ。

沖縄に行くと、なんくるないさ!と
色んなことを気にしなくなるのと似ている。

暖かい地方に行くと、結果、
あまり、仕事をしなくなる。

確かに、そう考えてみると、
暖かい地方の連中はあまり働かないし、
あまり難しい事を考えない。

かなり生き方がテキトーである。

逆に北欧とかドイツとかカナダとか
ロシアとかワシントン州あたりは、
難しい顔して哲学をつぶやいている人間が多い。

だから仕事を能率的に、効率的に進めるため、
タスクをバシバシ完了させるため、
マレーシアにやってきた私は、完全に、

「しまった、ミスった、」

というわけで残念な感じである。

勿論寒くて凍えているよりは
良い部分もあるが、それでも、
なんとなく寒い埼玉で震えながら
仕事していた時のほうが、

いいアイデアは出ていた気がする。

結論、南国へは、仕事しには来るな。
ということになる。

バカンスや遊びに来たり、
リラックスしてまったりするために
来るのは良いと思う。

が、仕事は進まないものと
思った方がいいらしい。

つらい。話が違うじゃないか、
そんな私の嘆きも後の祭りである。

「でもカタギさん、だったら、カフェに行ったり、
コワーキングで仕事すればいいんじゃない?」

そんな意見もあるだろう。

勿論私もそう考えて実行に移した。

で、、、タイトルである。

「南国ジレンマ」。

どういうことかというと、
逆に今度は中は寒すぎる、ということ。

クアラルンプール在住の
日本人の方が言っていたが、

「こっちの人は寒ければ
寒いほどいいと勘違いしている」

らしい。

映画館に入っても1時間ももたない、
らしい。寒すぎて。

外にいると眠くなる。
中に入ると寒すぎる。

まさに、ジレンマである。
どうしろと。

結局、「それでもその方が頭は働くので」
寒い中で仕事をしている私である。

寒さを逃れてマレーシアに来て、
結局寒い中で仕事をする、という
謎の自分に大いなるジレンマ、
そしてフラストレーション、を
感じている今日この頃である。

再度結論、

「南国へは遊びに来ようね♪」

2019年1月19日土曜日

人に「融ける」社交家

死にやすいタイプの人間がいるそうだ。

それも、大体人口の5割ほどの人に
当てはまるタイプの人間らしい。

しかも大体自分では気づいていなく、
俺は大丈夫!私は元気!健康!と
自信満々に思っていて、それで、

ある日突然、、、、という
悲劇のパターンになるらしい。

『え!?いきなり何ですか!
失礼ですね!死にやすいのは、
車に撥ねられやすいカタギさんでしょ!』

そんな声が聞こえてきそうだ。

確かに私も彼らに負けず劣らず
「死にやすい」タイプの人間であるが、
私の場合は物理的に死にやすいタイプなのだが、
彼らは、なんというか、

精神的に、死にやすいらしい。
怖いと思う。実に恐ろしい。

精神的な「死」とは
どういうことかと言うと、

一言で言うと、融解。

他人に、溶かされる、、

個人性も、アイデンティティも、
自分の長所も短所も、個人的な
感情や記憶や思い出や体験も、

全て自らではない、他の誰かに、
溶かされる、そして、消える。。

それが、精神的な死、
ということになるらしい。

恐ろしい話である。
考えたくもないし、信じられない。
と思う。私もそうだ。が、
事実としてセオリーとして、
統計的にも、それは存在する。

間違いなく、私たちの現実の中に。

以前、アンビバートについて、
書いたことがあったが、

その時は内向的な人間が、
どうやったらアンビバートに
なれるのか、どうやったら、

外向性を身に付けることができるのか、
そして、なぜ外向性を身につけなければ
いけないのか、話した。

で、その逆の外向的なヒトが、
どうしたらアンビバートを目指せるのか、
その具体的な手順や方法や、理由は
また今度書きます、と言っていた。

それを今回書こうと思っている。

そう、つまり、今回の
死にやすいタイプの人間とは、
「外向的」なタイプの人間である。

社交的で、いつも外を飛び回って、
色んな人と絡んで、話して、
発信しているタイプの人間。

疑問は当然お持ちになるでしょう。

どっちかというと、内向的人間の方が、
ウツとかになって、自殺しそうである。

でも、実際は真逆、らしい。




内気になって、自らの殻に閉じこもって、
それで
というのはまずい、というのは誰でも思うだろう。

が、外向的な人間が、内側にフォーカスしたほうがいい、
内気になって、部屋に閉じこもって、引きこもりみたいなことを
したらいい、というメッセージはレアで、あまりない。

だから彼らはかわいそう、なのかもしれない。
内向的な人間が、外向的になれ、というのは
結構メッセージとして社会に存在するので、
内向的な人間は死を免れているのかもしれない。

でも、その逆はあまり、ない。

だから危険なのである。

外向性に走りすぎると何がマズイのか。

外向的にふるまって、
人と多く絡むためには、
どうしても「自分のエゴ」を

自分より相手を優先させる必要性が出てくる、
そう、それは必要性だ。
相手と自分の価値観や考えが異なるとき、
自分のそれを優先させていたら、
スムーズに人間関係は構築できない。

ある程度妥協して、人に合わせる必要が出てくる。

それはもちろん素晴らしいことだ。

でもそれを突き詰めていってしまうと、
どんどんと、自分自身がなくなっていく。
他者、流行、社会、モラル、道徳、通念、
そういった自分以外の何かに
自分自身がどんどん浸食されていってしまう。

そして、ある日、外向性に走りすぎた人間は、
気が付くという。自分には、何もない、と。

最終的には、俺は何をしたいんだろう、
何を一体、この人生で達成してきたんだろう、
何になりたかったんだろう、

自分と他人の境界線があいまいになる。
結果、自分が、分からなくなる、
見えなくなる、それはとても恐ろしいことだ。

だから、彼らは籠るべきなのである。

彼らに必要なことは、ビジネスホテルとかの
一室を借りて、部屋にこもり、内観すること。

自分の心の声に耳を傾けること。
自分との対話の時間を積極的にもつこと。
これが極めて重要だ。

身ひとつで部屋にこもる。一日。
何も持って行ってはいけない。
パソコンも携帯もTVも雑誌も、だめだ。

静かに座禅を組んで、瞑想をする。

「俺は何になりたいのか」
「俺は本当は何を望んでいるのか」
「未来、俺はどうしたいのか」

社会的な観念だったり、他者の意見ではなく、
自分の奥底にある、本当の夢を探す。

そのためには、自分の心海に潜る、必要がある。

これを、社交的な人間は極端に嫌がる。

ひとりになって、孤独になって、
自分自身と一対一で向き合うのを、
極端に恐れる。

で、いつの間にか携帯でSNSを見ていたり、
TVを見ていたり、外に出ていたりする。

でも、それではいつか、
彼らは他人に溶かされてしまう。

2019年1月18日金曜日

クアラルンプールに散る

爺くさい趣味がある。

散歩だ。

道を歩くのが、好きなのである。

道をあてどもなく歩きながら、
取り留め考え事をするのが好きだ。

自分の両足で、大地を踏みしめながら、
一歩、一歩、のっし、のっし、と
大気を切り開きながら、前へ、前へ、
体を押し出していく時、

なんとなく「生きている」実感を
感じ取ることができる。

体感できている感触がする。

乗り物を使うと、この感触は薄れる。

バス、タクシー、車、電車は
あまり好きではなく、やはり徒歩が好きだ。

昨日からマレーシアに来ている。

海外でもどこでも、私の主な
交通手段は、自分の両足だ。

地図を片手に、歩く。
迷った時は人に聞く。

今回の旅も、それは変わらない。
今回も、相当迷った。

クアラルンプールは初めて訪れる。

実は一回、中学2年生の時に、NZに行く
トランジットで、空港には往復合計で、
1日分くらいの時間は滞在した経験があるが、
ちゃんと入国するのは初めてであるマレーシア。

海外ではSIMを使ったり、モバイルWi-Fiを
使うって携帯で通信手段を確保するのが安全で
一般的だが、私はそれを嫌う。

その場合、当然、トラブルや迷った時が心配だが、
人に聞いたり自分で考えればなんとなか
なると実際の経験から思っている。

だから今回もその線で行った。
が、結果は相当苦労したのである。

マレーシア、道がない。
正確に言うと、歩道がない。

道を聞いて、この道を進め、と
言われても、歩道はないのであるから
びっくりである。

車がビュンビュン高速で走りまくっている
ハイウェイを進め、と言われても流石に
それは、、、と思ってしまう。

市内はさすがに歩道があるが、
それもかなり狭い。また、ビルの中を
潜り抜けたり、駐車場を潜り抜けて
進まないといけない箇所も多い。

実にガッデムである。
散歩狂の自分にはもうちょっと
歩きやすい道が、、、と思ってしまう。

バイクや車が走る道を潜り抜けながら
進んでいかなければいけないので、
考え事もままならない。つらい。

でも考えてみれば東南アジアの都市部は
みなこんな感じでカオスである。

プノンペンやジャカルタの道で
ぼーっと考え事をしながら歩いていて、
何度も轢かれそうになって死にかけたこともある。

今回も注意しないと滞在中に死ぬかもしれない。

というかその危険性は高い。

日本でさえ何度もはねられたり、
轢かれそうになった経験をもつ
自分である。

今回も間違いなく、少なくとも、
交通事故や、交通事故未遂、
衝突未遂事件にはたびたび見舞われるだろう。

ひょっとしたらこの1月の命かもしれない。

男、カタギ、マレーシアに散る。
詩になる?んなわけない。ダサい。

くれぐれも注意しようと思う。

ホテル前の道

2019年1月16日水曜日

アンビバートへの道

最近私が「おお」と思った言葉で、
アンビバート、という概念がある。

心理学では人間には色々な性格が
あって、あらゆるアングルから
個人の性質をタイプ分けできる、と語る。

その中のひとつに内向的、そして
外向的、という分け方がある。

私の記憶が正しければ確かユングさんが
初めて提唱した概念だったはずだ。

「知ってますよ!内向的はシャイで
外向的は明るい人の事でしょ!?」

そう。結構日常会話でも、

「ほんとあの子は内気で内向的で...」

と一般的に使われたりもするので、
基本的なイメージは多くの人も
了解の所だと思う。

ただ、注意しないといけないのは、
「外向的」は、「外交的」とは別だ。

外交的は、明るい、社交的、という
意味で間違っていないが、外向的は、
重なる部分もあるが、基本的には
全く別の意味の言葉である。

外向、というのはエネルギーの流れだ。

エネルギーが外に向いている、
ということである。

逆に内向は内側に向いている。

エネルギーを「注意」と言い換えて
みても、良いかも知れない

その人の注意が基本的に内側に
向くことが多いか、外側に向くことが多いか。

だから、その人のキャラクターが明るい、
暗い、という面だけで判断しようとすると、
誤認や誤解が増える。

まあそれも踏まえてカンタンに
内向的人間、外向的人間の特徴を
説明してみると、

内向的人間は、静かで、おとなしく、
基本的に一人でいるのを好む。その方が楽なのだ。
人と群れてばかりいると気疲れをして、
なんとかして一人の時間を確保したくなってくる。

逆に外向的人間は一人を嫌う。他人とカラむのが
好きで、出来るだけ他人と一緒にいたいと思う。
皆といるほうが元気が出てくるのだ。
孤独の状態が嫌いで一人でいたらさみしくなって
どんどん元気がなくなってくるタイプだ。

やたら内向、外向の話が長くなってしまったが、
今回のお題はアンビバートだ。

で、このアンビバートってなんですか?
って疑問があると思うが、

これは要するに内向、外向の中間。

両方の性質をもったバランスの
とれた人間、という事、らしい。

パーティー会場など、外向的に振る舞うべき
場面では外向的に苦もなく振る舞えるし、
一人で黙々と作業をしなければ行けない場面では、
内向的100%になって着実に孤独に
作業を終わらせることができる。

友達もコネも多く、たくさんの素敵な人たちから
尊敬、信頼されており、なおかつ自分の
確固たる軸を心の芯にもち、社会、メディア、流行、
他人に振り回されない自分の信念に従い生きている。

そんなパーフェクトな人格者がアンビバートだ。

アンビバートは生まれつきの人もいるが、
多くは後天的になれるようである。

つまり、生まれつき内向的な人は、
外向的な要素を身につける、
そして、外向的な人は、内向的な要素を
強化する、そのことによって
アンビバートに近づける、らしい。

つまりアンビバートになる方法は、
内向、外向、で全く真逆のアプローチになる。

もちろん私も全てが完璧の
スーパーマンになりたいので、
当然アンビバートを目指している。

が、まだ全然ダメである。

勿論私はシャイで内気で根暗で友達ゼロの
超内向的人間なので、私の課題は、
外向性を身につけることである。

つい、内側にこもって、悶々と
取り留めのない思考の迷路に入って
一人喜々として抽象的なパズルを楽しむ。
ということを往々にしてしてしまう。

悪癖である。外向性を身につけねばならない。

外向性とは、文字通り、外側に向かって行く力。

外側の現実、現象、世界に注意を向ける力。

だから私が行うべきことは、
内側の自分の考え、自分の感情、
自分の感覚、自分の直感などに
注意を向けるのではなく、

外側の世界になにがあるのか、を
もっとよく知って理解することである。

色んな街を歩いてみる。
色んな絵を見てみる。
色んな人と絡んでみる。
色んな経験を積んでみる。
色んな果物を食べてみる。
色んな花の匂いを嗅いで見る。

そういったことが必要だ。

要するに外に出て、人と絡め、
ということである。

これが課題。そう苦手なのである。
不得手だし、めんどくさい、と思ってしまう。

が、自分の感情は
無視してやらねばならない。

だから私がよくやることは、旅行だ。
そして人と絡む必要のある
旅行を計画するのである。

ただ旅に出るだけでは私は
ひとりで当てどもなくさまよう、
傾向にある。それが好きなのだ。

でもそれでは外向性はあまり、
磨かれない。だから人と絡む必要性を
強制的にもたせる、、

例えば、明日から私はマレーシアに行くのだが、
今回は宿を旅館でもエアビーでも
ビジネスホテルでもドミトリーでもなく、
シェアハウスにすることにした。

個室はないそうなので、
よって一人の時間は多分あまり
とれないし、他人と常に絡む
必要があるだろう。

ぶっちゃけかなり嫌である。
めんどくさい。胃が切り切りする。

でもこれだと強制的に外向性を
育てるしかなくなるので、
アンビバートを目指す方法としては
かなりいい方法である。嫌だが。

さて、

長くなってしまったので、外向的な人が
アンビバートを目指す具体的な方法や
手段については、明日の記事で書こうと思う。

今回の内容、かなり大事だと、私は認識している。

あなたも是非何か参考になる部分があれば、
実生活に取り入れてみてほしい。

とにかく明日から私は1月くらい
クアラルンプールで過ごす。

海外旅行の最中は外向性の訓練として、
たくさんの人間と義務のように絡む、
と決めているので、もう、自分の世界には
あまり来れないだろう。せつない。

でもこれもパーフェクツ人間になるための道。
これで、いいのである。

アンビバートへの道。

王者へのビクトリーロード。

黄金だぜ。輝いて見えるぜ。

今日から俺は外向的だぜ!!!!
楽勝だぜ!!

......。

そう書いていたのだが、
また何かイヤな気持ちになってきた。

もう既に及び腰である。

日本の田舎でお気に入りの本でも
読みながら日向ぼっこして
コーヒーでも飲んでたい。

ああ、、早く帰りたい。。

それが私の私の中にある本音である。
おそらく。

アンビバートへの道はまだ、遠い。

2019年1月15日火曜日

髪とイマジネーション

髪は創造性を高める。

長髪の人間のほうが
クリエイティビティを発揮できる。

髪にも感覚があり、昆虫の触角の
ように、髪が長い方が高い認知力を
発揮でき、イマジネーションが高まる。

だからクリエイティブな仕事を
している人間は、髪はなるべく
切らず、伸ばし続けた方がいい。

眉唾ものの話だが、
そんな理論を読んだことがある。

確かに稀代の芸術家や学者、
アーティストや工芸者などは、
ロン毛の人物がやたらと多い。

スポーツ選手のように短く刈り込んだ
大芸術家や大作曲家の肖像は
あまり見たことがない気がする。

ただ、実際のところはどうだろう?

関係あるのだろうか?

あまりピンときていない。

ただ、自分も本当に魂のこもった
コピーを書いていたり、根詰めて
仕事をしているときは髪は切らず、
伸ばしている方が多い気もする。

で、

大きなプロジェクトが完了したり、
大切なセールスレターが完成したり、
そういった「区切り」で髪を切りに
行くことが多いというのは、ある。

ボウズのように髪が短い時より、
目を覆うくらいの前髪が有る時のほうが、
確かに、なんとなく、直感的というか、
神秘的な「何か」に触れることができ、
繊細な表現力の高い文章が書けている気が、
言われてみれば、まあ、、、する。

私の過去のコピーや広告や日記や
ブログやメモ書きや友人とのメール
などを洗いざらい見返してみても、

確かに、違いは発見できる。

髪をガッツリCUTしてキラーンと
さっぱり爽やか系男子になってしまうと、
なんとなく、繊細というか緻密というか、
そういった艶やかな文は書けず、

「綺麗な女の子がいた、カワイイ!」

とか、

「ゴハン美味しい!ビール美味い!」

とか、

そういうストレートで単純な文を
書くようになる傾向が強い、
というのは傾向として発見できる。

そんなに絶対的な要素ではないが、
傾向性としては確かに
存在するかもしれない。

でもそうすると基本的に男性より
髪が長い女性は基本的に男性より
クリエイティビティがある、と
いえるのだろうか、とか。

髪の毛だけではなく、ヒゲや
すね毛とかまつげとか他の毛は
関係はないのだろうか、とか。

良く失恋すると髪を切る女性がいるが、
あれは創造性という名の深み(鬱)
から脱却するために触角を刈る、という
海よりも深い理由があっての行動
だったのだろうか、とか。

考えてみると面白い。

今日も髪を切ってきた。

で、頭が軽くなった。

結構伸ばしていたのだ。

実は5ヶ月ぶりくらいの散髪で、
美容師のニイサンも、

「やたら切りましたよ」

とやり切った男の顔を浮かべていた。

で、創造性がGONEしたか、
と考えてみるとどうだろう。。

あまり変わらない気がする。

こんな感じでいつもどおり
理屈が通っているようでいない
ヘンテコなブログを書いているので、
通常のオレモードで変哲もなさそうだ。

頭の毛が大量になくなったので、
頭部の重量が軽くなって、それで、
創造性、というか脳の密度?が
減った気はする。そんな気はする。

なんとなく、短髪に変身した瞬間、
お腹がぐ~って鳴って空腹を
感じた気がするし、

美容院から、家への徒歩5分の帰り道
にも、美貌のマダム(多分普通のオバちゃん)
にも意識をフラフラと奪われかけた気もする。

髪を切ると「メシ」と「ガール」に
弱くなるかもしれない、というマイ理論は
高確度で適応できるかもしれない。

ただ自分だけの場合かもしれない。

で、聞いてみた。

何処でもマイペースな私は当然
担当してくれた美容師のおしゃれだけど
小太りのニイサンにもこの、

「髪と創造性」

の理論を一席ぶってみた。

彼は妙な顔をして私が得意げに
話すのを客商売だから仕方なし、
という感じで聞いていたが、最後には、

「ですね~短い方が視界がひらけて、
頑張ろう!って感じになれますよね~」

と私の話をまとめてくれた。

彼のおっしゃる通りである。

ウダウダ理屈こね回してるヒマがあったら、
やるべきことを真面目にこなす。

とりあえず仕事をガンガン頑張ればOK。

髪が短かろうが、長かろうが、
モーマンタイ。

私は今日もコピーを書く。

書き続ける。